神戸市建築協力会について
創設の経緯
背後には緑まぶしい六甲山系の山々が控え、目前には穏やかな瀬戸内海が広がる神戸市。
温暖な気候に恵まれ、開港以来、進取の気性に富んだ国際港都として発展を遂げてきました。
しかし反面、海と山が迫る東西に細長い市街地は総じて傾斜地であるため、大きな水害の危険にさらされてきました。
実際に昭和20(1945)年代から40年代にかけては、たびたび台風による風水害に見舞われ、
その都度、救助活動が後手に回るなどして大きな被害が出るという現実があり、そのような中、
神戸市で風水害が発生した際にはいち早く駆け付け、初期救助活動に当たろうと、神戸市で事業を営む建設会社が立ち上がりました。
そして、昭和40(1965)年11月、7社による結成準備委員会が開かれ、その翌月には35社が参加する神戸市建築協力会が創設されました。
創設の基本理念は「神戸市の災害に際し、その救助復旧等に関し、市政に対する純粋な奉仕団体に徹する」とされ、災害奉仕の精神、
今でいうボランティア精神が当初から強く宿っていたことを物語っています。
災害における活動
昭和42(1967)年7月、神戸市を集中豪雨が襲いました。総雨量が320ミリに達し、急激な出水による河川の氾濫、崖崩れ、家屋の倒壊、
市民の生き埋めなどが市内全域にわたって発生しました。死者85人、重傷者35人、行方不明者8人、家屋の全半壊737戸、甚大な被害に
より神戸市は一時パニック状態に陥りました。
この時、神戸市建築協力会は初出動を果たしました。水害救援隊を編成し、市からの出動要請により5日間にわたり、
生き埋めとなった人の救出作業や、倒壊家屋や幹線道路上の流石・流木・土砂の除去作業に一丸となって取り組みました。
延べ人員171人、ダンプ78台による活動が奉仕され、同年8月、豪雨災害救助功労者として、神戸市長から表彰状が授与されました。
また、その際、出動命令からの集合統制がスムーズにはいかなかった苦い経験から、後の「災害奉仕隊の活動計画」や
「青年部会の結成」につながることになりました。
平成7(1995)年1月17日、神戸市建築協力会の最大の苦難となる阪神・淡路大震災が発生しました。
淡路島北部沖の明石海峡を震源とるすマグネチュード7.3の大地震によって神戸の街は一瞬にして崩壊しました。
神戸市建築協力会においても、会員企業の多くが被災しまし、電話は携帯電話を含めて不通となり会員企業の半数にも連絡が取れない状態でしたが、
発生当日には、「神戸市建築協力会災害対策本部」が設立され、翌18日には神戸市からの要請を受けて災害奉仕隊の出動が開始されました。
支援車両の手配、各避難所への救援物資の運搬等、神戸市建築協力会への要望は多岐にわたり、不眠不休で活動が行われました。
道路事情がおぼつかない中、会員による市内各所の市営住宅を手分けして回り、ドアが開かずの状態になっていないかなどをチェックして回り、
必要があれば修繕なども施し、会員企業50社で約2万戸の市営住宅を復旧しました。
この活動は半年以上にわたり、災害対策本部が解散したのは8月11日のことでした。一連の災害奉仕活動に対して神戸市から感謝状が授与されました。
現在の活動
神戸市建築協力会の委員会組織は「経営委員会」「技術員会」「災害奉仕・安全委員会」の3つの事業委員会となっています。
「経営委員会」では、経営の合理化を促進するための施策を検討し、入札や契約に関する事項について要望し回答を得ています。
また、「技術委員会」では、安全意識の普及徹底に努め、年2回の会員企業の建築現場への安全パトロールを実施や、事故事例の
公開による類似事故の再発防止などを行っています。
そして、創設理念でもある災害奉仕活動を担うのが「災害奉仕・安全委員会」であり、「神戸市地域防災計画」に基づき、災害が発生、
もしくは発生する恐れがある場合に、神戸市からの協力要請に迅速に応えるために編成されています。
毎年6月には全会員企業が所在地域に基づき3小隊6分隊に編成された約150人が出動訓練を実施し、万が一の災害発生に備えています。
また、震災時に一人の青年部会員が救命活動によって市民の命を救ったことをきっかけに、市民救命士養成講習会を毎年実施し、
市民救命士の取得者は1000人を超えています。それと共に平成21年度からAEDを毎年1台「会員一人一人の市民の安全に対する強い願いを込めて」神戸市に寄贈しています。